逃避日記 166

時事ネタ

時事ネタへ言及したいものの、時事ネタに言及してるコミュニティに立ち入るのは精神衛生に良くないなという学びを得た。当面立ち入らないことにしようと思う。

体調

胃腸の具合が安定しない。今日は主に腸の具合が悪いようだ。

昔の記事について

ふと思い立って昔書いたこのBlogの記事を読んだ。「ああ、この頃は誰かに見せる気あったんだな」と思わせるような文体で、時が人を変えるのだなと実感した。

科学って何だっけ?

とまあ、そんな疑問が脳裏を過った。

正確にはよくある風刺的な反問や反証可能性云々の話やら科学哲学的な疑問ではなく、「科学とは言うが語源の典拠は何だったんだろう?」という疑問が脳裏を過った。結論だけ書けば、「科挙之学」の略だった。

時代劇によくある「観念しろ」の「観念」が「観相念仏」の略であって所謂哲学で度々出てくる「観念論」の「観念」とは一致しないのと似たような感覚ではあるが、「科挙之学」という単語が作られた頃は学問としての精髄部分だったのだろうなと思わなくもなく割と複雑な感覚であった。

余談:単刀直入

前項の後、更に単刀直入という語は故事成語だった筈だがどういう逸話だったっけか と思い出そうとして失敗していた。その間にいつもの病気で「あれ? 確か単刀直入の故事って前半で「単刀直入」という語が出てきた筈だけど、どういう逸話だっけ?」といった追加の疑問の沼に沈み込んでいた。

どうも年末で暇してて持病が悪化したらしい。

で、前置きはさて置き原典なんだっけ? と散々あちこち漁った結果、以下に行き当たった。

臨際曰く、『今日は更に如何若何を用いず、便ち須らく単刀直入なるべし。還た出で来たりて衆に対して証拠する者有りや』と。
時に僧有り、出でて礼拝し、起ちて便ち喝す。臨際も亦た喝す。僧又た喝す。臨際も亦た喝す。僧礼拝す。
臨際曰く、『須らく是れ這の僧にして即ち得ん。若し是れ別人ならば三十棒なり、一棒も校し得ず』と。

『天聖広灯録』巻 17
※ 臨済禅の南伝と臨済宗の形成 ―五代宋初臨済禅の一考察― - 呉 進幹*1 より書き下し文を孫引き

結論として、理解の限りでは原典は天聖広灯録という南宋代に書かれた臨済宗の禅籍によるものであるらしい。禅宗について無知な上に孫引きはどうよとも思ったが、漢籍の原典を探して読むだけのエネルギーはなかった。

正確には書き下し自体は割と素直に読めた気がするが、何分仏法説話に類するものなので知ったような語り口で書き下し文読んだ感想を書くのはやめることにした。

…いや、この際正直に書き残しておこう。

本当のところは途中まで書いてる内によくわからなくなっていき、「注:」とか「※」とかつけて散々予防線を張ろうとしたのを自分で読み直して最終的に「これ、『単刀直入』が出てきた文脈から掛け離れた態度そのものな文章が出来上がりつつあるな」と思うに至って一括消去した。わざわざ『単刀直入』と括弧書きで書いているのは、足掻いたという自己満足をBlogに残しておこう 程度の安い矜持だ。

締まらない余談の余談

IMEに「安い矜持だ」を「安井恭二だ」と変換されてしまい、最後の最後で笑ってしまった。完全に不意打ちだった。